愛しの暮らし

子育て・犬育て・自分育て。暮らしのなかにある愛しいものを綴っています。

親指をめぐる攻防戦


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なかなか手強い相手だ。一筋縄ではいかない。これまでもあの手この手で挑んだものの、私はまだ一度も勝利を手にしていない。

絆創膏を貼ったり、指人形をかぶせてみたり、考えられる手は尽くしてきた。これ以上一体どうしたらいいのだ…

こっちゅんが止めてくれないのだ、指しゃぶりを。

3歳児健診で「心配なことはありませんか?」と聞かれた私は、かねてから気になっていたこっちゅんの指しゃぶりについて質問した。

「何歳くらいまでに止めさせればいいんでしょう…」

「そうですねえ…もう3歳になったので、そろそろかと。歯並びにも影響しますし」

やっぱりそうだよね、と心の中で頷きながら、帰路、こっちゅんと指しゃぶりについて話をした。

「こっちゅん、指をしゃぶってると、こっちゅんの歯がどんどん前に出てきちゃうんだって。こっちゅんはもう3歳のおねえさんだし、指しゃぶり止めてみない?」

「ううん。止めない」

カーンとゴングが鳴る音がした。終了である。

こっちゅんはそれ以上何も語ることは無いと言わんばかりに私の手を振りほどき、公園へと駆け出していった。

一体どうしたものか。ネットで「指しゃぶり 止めさせる 方法」と検索すると圧倒的に多いのが指に絆創膏を貼るという方法だ。確かに以前絆創膏を貼った時、その上から指しゃぶりをした結果、あまりに不味く、途端に口から指を出したということがあった。これはいけるのではないか!?そう思ったのもつかの間、こっちゅんはその経験から絆創膏自体を嫌い、貼らせてくれなくなった。そして遂にこっちゅんの親指には厳然とタコが出現してしまったのだ。

しかしどう考えても、手軽にできる方法といえばやはり絆創膏作戦しかない。そのためには、こっちゅんに絆創膏を好きになってもらうことから始めなければならないようだ。

「こっちゅん、こっちゅんはさ絆創膏がキライでしょ。でもね、怪我した時にいたいのからこっちゅんを守ってくれるのが絆創膏なの。アンパンマンと同じヒーローなんだよ」

アンパンマンにとっては絆創膏と一緒だなんて寝耳に水かもしれないが、とりあえずこっちゅんが知る数少ないヒーローと同列にするしかない。

「だからね、こっちゅんが親指に絆創膏を貼ったら、いつでもアンパンマンと一緒ってことだよ」

もう支離滅裂である。でももう後には引き下がれない。その時私はふと思い出した。以前にアンパンマン柄の絆創膏を試したことを。しかしその時ですら門前払いを食らっていたではないか。これじゃあ「親指に絆創膏=アンパンマンといつも一緒」作戦が上手くいくはずがない。

無言を貫くこっちゅんに白旗を上げながら、私は率直に聞いてみた。

「こっちゅん、どうしたら絆創膏を好きになってくれるの?」

すると少しの沈黙の後、こっちゅんが答えた。

「くまちゃんかいてくれたらいいよ」

「!!!!」

盲点だった。こっちゅんはIKEAで買ったくまちゃんのぬいぐるみがお気に入りで、どこに行くにも一緒だ。最近知ったアンパンマンより、旧知の仲であるくまちゃんと一緒にいたかったのだ!

「よーし、わかった!かいてあげようね」

その気持ちが変わらないうちに、私は絆創膏にかわいいくまちゃんの絵を描き、こっちゅんの指に貼った。

するとその瞬間、こっちゅんが言ったのだ。

「まま、こっちゅんずっとくまちゃんと一緒だね!」

そして最愛のくまちゃんを口に入れることはできないと思ったのか、こっちゅんの指しゃぶりは嘘のようにピタッと止まった。

今ではすっかり絆創膏が好きになったこっちゅん。怪我をして無くとも貼りたがるのには閉口するが、とりあえずは良しとしよう。今ではくまちゃんだけでなくいろいろなものが描かれるようになった絆創膏。にんじん嫌いのこっちゅんに何とか食べてもらおうと写真のように描いてみたが、それはまた別の話らしい…

 

 

「おいしい給食」


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完全にハマってしまった…

私の頭の中ではテーマソングと校歌が絶えずリピート再生されている。

こんなにハマったドラマは久し振りかもしれない。年末年始の暇つぶしとして何か見ようとアマゾンプライムを検索しているときに見つけたのが、ドラマ「おいしい給食」だ。

タイトルからして給食を食べるドラマだということはわかる。でもそれだけで30分とはいえストーリーが成立するのか?そんな疑問を抱きながらも、まあ無料だし、1話だけ見て面白くなければやめればいっか、という軽い気持ちで再生をスタートした。

ところが、だ。

再生を停めることができないくらいハマってしまったのだ。

「給食マニアの教師」と「給食マニアの生徒」の2人が、どちらがおいしく給食を食べるかという戦いを繰り広げるというシンプルな設定ながら、先生役を演じる市原隼人のオーバーリアクションと、何と言っても「うまそげ」に見える給食。そしてその味とともに思い出す子どもの頃の思い出など、30分に笑いと味覚と郷愁さえも刺激してくる内容に、つい先が見たくなってしまうのだ。

このドラマの時代設定は1984年なので、私が生まれるよりも前だが、それでも給食の雰囲気がありありと思い出されてくる。現在3歳で給食知らずの娘・こっちゅんも一緒に見ているうちにハマってしまい、「まま、給食おいしそうだねえ」と言い出す始末。あまりに面白いので夫も巻き込んで、1日の終わりに家族全員で「おいしい給食」を見るというのがルーティン化してしまった。

更に恐ろしいことに、このドラマに映画とシーズン2があることを知った私たちは、それを見るのにレンタル料がかかることも承知の上で、ポチってしまった。これまでどんなに見たい映画があっても、有料レンタルまではしなかったというのに、「おいしい給食」には勝てなかったのだ。

今夜の夕食は「わかめご飯」にしたのだが、これも昨日見た「おいしい給食SEASON2」に完全に影響されているというのは言うまでもないだろう。

私もマニアまではいかないが、子どもの頃の最大の楽しみは給食の時間だった。一番好きなメニューは母のレパートリーには無かったキーマカレーであり、家で食べるレバーは苦手でも給食で食べるケチャップで味付けされたレバーは食べることができた。給食のあとは決まって眠くなったが、給食を食べて誰もが大きくなり、給食を通して家族以外の誰かと食べる楽しさを知った。

今はコロナの影響で黙食をする学校も多いと聞く。どうか1日も早く「おいしい給食」のワンシーンのように、皆でワイワイとおしゃべりし、笑いあえる「たのしい給食」の時間が戻ってくるよう祈らずにはいられない。

 

 

2023年 大切にしたいこと


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2023年が始まった。

 

年頭にはいつも新しい自分を思い描き、あれをやりたいこれに挑戦したいと欲張りになるものだが、今年の私はそうじゃない。「新しい自分」になることも大事だが、今までやってきた中で「とりわけ好きな自分」をもう一度大切にしてみようと思うのだ。

 

例えば「ヨガをする自分」。

コロナ禍に体を動かそうと始めたおうちヨガ。これまでの私は運動してもなかなか続かなかったが、ヨガだけは違った。無理せずゆるゆるとやっていたのが良かったんだと思う。生真面目な性格のため、何をするにもやると決めたらきちんとやらないと気が済まないし、1日できなかっただけで「…続かなかった」とやる気を無くしていた。でもヨガはそこまで気負うことなく。やりたいときにやる程度で満足だった。そしてだんだんハマっていき、自然と毎日のように体を動かすようになった。「ヨガが好き」なのか「ヨガをしている自分が好き」なのかはわからないが、ヨガを終えた時の爽快感がたまらない。「ヨガをする自分」に酔っているのかもしれないが、それでも続けてみようと思う。

 

もう一つは「好奇心旺盛な自分」。

子育てをしていると知らず知らずのうちに「子どものために」という理由をつけてあきらめていることがある。例えば観劇。私はミュージカルやお芝居が大好きで、学生時代はアルバイトしたお金を貯めては劇場に通っていた。テレビも確かに面白いが、LIVEで見るドキドキ感に勝るものはない。見る者と見られる者、その双方が作り出す空気がお芝居を作っていくという、咳ひとつできない緊張感がたまらないのだ。でも幼い子どもと一緒に行けるお芝居は少ない。だから「もう少し先まで我慢だ」とあきらめていた。しかし昨年末に娘と「しまじろう」のコンサートに行ったとき、一緒に手拍子したり歌ったり笑ったり、「一緒に作り上げていく」一体感を久し振りに味わい、興奮した。これだ!私の好きな世界は!!娘を膝に乗せながら一緒に揺れると、娘を楽しそうに声を上げて笑っていた。もちろん劇場に入場できる年齢にルールはある。でも幼い子どもと一緒に楽しめる機会も探せばあるはず。これからはそういう機会を逃さず、参加していきたいと思う。と同時に、たまには夫に任せて、自分の心を豊かにしてくれるような時間を過ごしたいし、もちろん観劇だけではなく自分が興味を持ったものを掘り下げていきたい。

 

2023年がどういう一年になるのか。

少なくとも去年より笑顔の多い年にできるよう、自分からたくさん笑っていこう。

笑う門には福来たる」だ。

 

大人の習い事

好奇心旺盛の私。常に何かやりたいことや勉強したいことが心の中にある。

こっちゅんが生まれる前は、気になることが生まれる度に本を読んだり、フィールドワークにいそしんだりした。

例えば歴史。もともと歴史が好きなのだが、維新150年を迎えたときは明治維新に関わった西郷隆盛たちを育んだ鹿児島の「郷中教育」について知りたくなり、お金を貯めて何度か単身鹿児島へ行き、図書館や史跡を巡ったり、郷土史家の話を聞いたりした。それを自分なりにまとめ、同じく歴史が好きな夫相手にプレゼンしたり、地元紙に投稿したりと学べる楽しさを日々感じていた。

しかし子育てが始まると、子育て以外何もできないくらい育児に翻弄される。

こっちゅんも元気いっぱいで全く目が離せない。ブログを書くのもこっちゅんが眠っているほんの短い時間しかない。

とはいえ、何かしていないと私の心は干からびてしまいそうだ。

そこで思いついたのが、以前もブログに書いたヨガと「お茶」だ。

お茶は高校時代に部活として学んだことがあった。もっとも吹奏楽部と生徒会をやっていたので、週に1回だけの参加。「お菓子が食べられるから」という廃部寸前の茶道部員からの誘いにのったのだった。

たった週に1回の参加。とはいえ茶室に漂う静かで張り詰めた空気に惹かれ、大人になってからも自分で安い茶道具を購入し、お茶を点てて楽しんでいた。こっちゅんが生まれてからはずっとしまっていたが、テレビでやっていた抹茶の特集を見て、またお茶を点てたくなった。

今は便利な世の中である。

スマホで検索すれば、お茶の点て方や楽しみ方を動画で見ることができるのだ。

そうそう、こういう手順だった…

そう思いながら、思い出すのは私に作法を教えてくれた先生の声だった。姿勢や目線、手の置き方など、決して動画ではわからない細かいところまで指導してくれた。その時は耳が痛いばかりだったが、今となっては注意されたことほどよく思い出す。

今はコロナ禍でもあり、近くにお茶の教室が見当たらないので断念しているが、願わくばまたどなたか師匠についてお茶を学び直したい。みずみずしい高校生の頃と違った感性で、お茶に向き合える気がするから。という理由とともに、叱られる事が無くなって生まれたであろう自分の心にある慢心を廃したいような気もしている。

大人の習い事は生きがいであるとともに、謙虚に学び続ける姿勢を身につけることでもある。いつの間にか凝り固まってしまった自分の心に新しい風を入れ、常に新鮮な自分を作る。それが人として輝き続けられる要因なのかもしれない。

 

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地獄のトイトレ

暑くなってきたのでいよいよ開始しようと決意したことがある。こっちゅんのトイレトレーニング、略してトイトレだ。

こっちゅんは朝起きてすぐにトイレに連れて行くと、すぐにチッチをしてくれるようになったので、「時が来たり!」と今週の月曜日からおむつをトレーニングパンツに履き替えチャレンジを開始した。

選んだパンツは大好きなスヌーピーのパンツ。トイトレは地獄と聞いていたので、お互いにテンションが上がるように選んだものだ。

「こっちゅん、今日からスヌーピーのパンツを履いてみようか!」

「うん!こっちゅん、すぬーぴーにする!」

嬉しそうにパンツを手にし、履き始めたこっちゅん。朝のチッチの時間をチェックし、1時間後にもう一度トイレに誘って見ることにした。

そして迎えた1時間後。こっちゅんにトイレを促すと、嫌がることもなく、スッと行ってくれ、驚いたことにチッチに成功!わが子はもしかしたらチッチの天才かもしれないと狂喜乱舞する私。

「やったね、こっちゅん!出たね!」

「うん!でた!!」

笑顔いっぱいでハイタッチする私とこっちゅん。しかし喜びはここまでだった。

「こっちゅん、トイレ行こうか」

同じく1時間後にトイレに誘った私。ところがこっちゅんはまだ出ないと言う。じゃあまあいっか、さっきもしたし5分後にもう一度誘ってみようと家事に戻る。ところがその2分後…

「うわあ~!ままあ!!ままあ!!!」

叫ぶこっちゅんの声に慌てて振り向くと、こっちゅんの足下に水たまりが…

「あんよがあ~あんよがぬれたあああ!」

滝のごとく流れるチッチに半泣きになるこっちゅん。

「あ~…こっちゅん、さっきトイレに行けば良かったね。次はトイレでできたらいいね」

失敗したか…とがっかりする気持ちを抑えながら、私はネットで見たとおり、声を荒らげること無く、極めて優しく振る舞った。

しかしそれが2度、3度、4度と繰り返すうちにクッションやらラグやら洗濯機に入れないくらい染みつきのものが増え、何度も何度も床の掃除を繰り返していくうちに、ついに私は耐えきれなくなった。失敗したこっちゅんに

「また失敗しちゃったの?!」

「なんでわからないの!チッチはお部屋でしないって言ったでしょ!」

「こっちゅんもさっきわかったって言ってたじゃん!」

「ママが何度もお掃除すると、こっちゅんと遊ぶ時間も無くなるんだよ!」

言ってもわからない…と頭のどこかでわかっているのだが、こっちゅんを立て続けて責めてしまった。

トイレトレーニングって、本当に地獄…

なんで私は一日中、チッチの後片付けばかりやらなきゃいけないの…

ほかにもやりたいことはいっぱいあるのに何で私だけ…

心の中に灰色の感情がむくむくとわき起こり続け、止まらない。泣きながら丸まって眠ってしまったこっちゅんを見てもイライラはおさまらなかった。

何もする気が起きずソファーに座った私は、手に持ったスマホで「トイトレ 地獄」と検索してみた。今私が抱えている気持ちと同じものを抱いている誰かと共感したかったのだ。

私はさんざん育児の大変さを綴った多くの人の言葉を読み、少しずつ平静を取り戻していった。そして最後に開いたのが「育児に疲れたお母さんに贈る詩」と書かれた文章だった。

ママの毎日

独身の頃
 
ヒールの靴が好きだった
お酒は苦手だったけれど友達と過ごすお酒の場の楽しい雰囲気が好きだった
 
好きな音楽はミスチルでいつもウォークマンに入れて好きな時に聴いていた
電車の中でゆっくり本を読むのも好きだった
 
お風呂では半身浴をして
美容院には2ヶ月に1回は必ず行っていた
 
お化粧するのも好きだった
1人で行く映画館が好きだった
 
流行りの雑誌を買い
流行りの曲を聴き
流行りの服を着て
流行りの場所へ好きな時に出かけた。

そんな私は 今
 
 
泥だらけのスニーカーを履き
 
子どもたちの着替えやオムツが入った大きなバックを肩にかけ
 
ちゃんとした化粧もせずに
 
髪を一つにくくり
 
毎日
子どもたちの手を繋いで公園へ散歩に行っている。
 
 
 
聴く曲はミスチルからアンパンマンマーチに変わった。
 
 
眺めているのはファッション雑誌から
子どもの母子手帳や幼稚園からの手紙に変わった。

考えていることは
今日の夕飯のメニューと
長女が幼稚園から帰ってきたあとのおやつ、お風呂、夕飯の流れの確認。
 
今日の天気で洗濯物が乾くかどうかと
明日の長女の遠足が晴れるかどうか。
 
最近眠くなると激しくぐずる長男を昨日つい怒ってしまったから
今日は早く寝かせてあげよう。
今日は怒らないでおやすみをしよう。
 
そんなこと。

毎日 押し流されるように迫ってくる日常があるから
 
キレイに片付いた部屋も
大の字で朝まで眠れる夜も
ゆっくり塗れるマスカラも
 
なんだかもう思い出せない。
 
 
 
そう。
 
 
 
思い出せないから
 
私たちは つい 忘れてしまうのだ。

この毎日が
 
ずっと続かないということを。

1人でゆっくりお風呂に入れるようになったら
 
 
湯船の中 あなたと向き合い数を数え
 
柔らかく響いたあなたの声を
 
 
私は思い出すのでしょう

1人で好きなだけ寝返りをうち眠れるようになったら
 
 
どこまで寝転がっても隣にいないあなたのぬくもりを
 
私は探すのでしょう

好きな音楽のCDを好きなだけかけられるようになったら
 
 
この部屋の中に溢れていたあなたの笑い声を思い出して
 
私は泣くのでしょう

好きなだけお化粧に時間をかけられるようになったら
 
 
私の洋服をひっぱり
膝の上によじ登り
私のやることなすことをお邪魔してくるあなたのその小さな手を思い出して
 
私は泣くのでしょう

好きなだけヒールが履けるようになったら
 
 
笑い転げるあなたを追いかけて走り回り
泥だらけになって遊んだあの空を思い出して
 
私は泣くのでしょう

自分とパパの洗濯物だけを回す日々が訪れたら
 
 
砂まみれの靴下も
おしっこを失敗したズボンも
牛乳をひっくり返したシャツも
 
洗濯カゴにないことを知って
 
 
私は泣くのでしょう

あなたの足音がしない部屋の掃除機をかける日が訪れたら
 
 
粉々になったビスケットの食べこぼしも
小さなおもちゃの部品も
あなたの細い柔らかい髪の毛も落ちていないことを知り
 
 
私は泣くのでしょう

1人で好きなことを
好きな時に
好きなだけ出来るようになったら
 
 
どんな時も「ママ」「ママ」と私を呼び
 
どんな時も私のことを探しているあなたの姿を思い出して
 
 
私は泣くのでしょう

一体いつまであるのかな
 
 
一体 いつまでここにいてくれるのかな
 
 
そして
 
そんなことを考えているうちに
 
 
 
また 今日も終わってしまった。

私たちの日常は「子どもが側にいる『今』」だから
 
子どもから離れて1人になれた瞬間が特別に感じて
 
好きなことを堪能できる喜びを噛み締めるけれど

でも 自分の人生を考えてみたら
 
 
特別なのは
 
 
本当は 子どもが側に生きているこの毎日の方。

でも 私たちはそれを忘れてしまう。

なんだか ずっと続くような錯覚を起こして毎日を過ごしているけれど
 
 
 
大変に思えるこの毎日に
 
数えきれない 愛しい が散りばめられていることを
 
私たちは いつか知るのです。

子どもたちが
 
この世に生まれてから今日まで
 
ママとパパのために
全身を力いっぱい使って思い出を撒き散らしてくれていたことに
 
私たちは 過ぎてから気付くのです。

ママの毎日は
 
ママでいられる毎日です。

 
 
私たちは この命が尽きるまで
 
どんなに子どもと離れていても子どもを思い、心配し、愛し続ける 子どもたちの母親だけれど
 
 
でも 子どもたちの側で『ママ』でいられることの出来る日の
 
なんて短いことかを
 
 
いつか思い知るのでしょう。

今日もあなたは
 
屈託のない笑顔で振り向き
 
「ママ!」と言って
 
両手を広げて こちらに飛び込んでくる。

忘れるものか。
 
 
絶対に。
 
絶対に。

あなたの前髪を切り過ぎて笑った昨日を。
 
あなたを怒って自分に涙が出た今日を。
 
あなたの寝相に笑った夜を。
 
あなたが摘んでくれたシロツメクサの白さを。
 
 
あなたに許された私を。
 
あなたがいてくれるこの毎日を。

私は 絶対に忘れない。

ミスチルも好きだけど
 
Eテレの歌に感動することを知った
 
 
ヒールも好きだけど
 
スニーカーの安心感が好きになった

自分のことが一番大切だった
 
 
そんな私に
 
自分の命よりも大切だと思える存在がこの世にはあると教えてくれた子どもたちに  
 
 
 
 
心から 感謝を。

 

 

号泣した。

そもそもこんなに涙を流すことすら久し振りかもしれないと思いながら、涙が溢れる度に自分の中にあった灰色の気持ちが洗い流されていくようだった。

「こっちゅん、ママが悪かったね。ごめんね…」

そもそもトイトレを始めたのは、上手くトイレに行けるようになったというお友だちの話を聞いたからだった。こっちゅんにも早くできるようにさせてあげなきゃと私はどこかで焦っていたのだ。それは本当にこっちゅんのためだったのか、それとも「できていない親」と思われたくなかったのか。

目を覚ましたこっちゅんに近づくとそっとこっちゅんを抱きしめて謝った。

「こっちゅん、強く言ってごめんね。ママが悪かったね。チッチができるようにゆっくりがんばろうね」

そう言うとこっちゅんは、小さな手を伸ばして、私の背中を優しく「とん、とん、とん」としてくれた。まるで私を許すかのように、そして安心させるかのように。

「育児」は「育自」とはよく言ったものだ。

変わるべきは私の心だと教えられたような出来事だった。

「こっちゅん、どっちのパンツをはきたい?」

スヌーピーの別のパンツと白い紙おむつを持ちこっちゅんに選ばせると、しばらく「うーん」と考えてこっちゅんは答えた。

「まだこっち!」

「そうだよね、やっぱり」

苦笑いをして、私は紙おむつをはくこっちゅんの安心した表情を見つめた。

 

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忠犬?アポロのお出迎え

うちのアポロは甘えん坊だ。

そんな風に育ててしまったのは私たちなのだが、子犬の頃から夫と私と並んで散歩に出かけ、こっちゅんが生まれたら抱っこひもで、そして歩くようになったら手をつないで家族全員で散歩に出かけるのが基本的な生活スタイルとなった。

夫の仕事も忙しいので、毎日全員で行くわけには行かないのだが、一人でも欠けるとアポロは玄関先で必ずドアのほうを振り向いて「ぱぱがいませんけど」と言いたげな表情をして私を見上げる。

「今日はお仕事なのよ。だからこっちゅんと3人で行こうね」

私がそう言うと、ちょっとつまらなそうな顔をして歩き出す。

犬ってこんなにもさみしがり屋なのかと知ったのは、アポロを飼い始めてからだ。子どもの頃から実家には犬がいたが、大人になってから迎えたのはアポロが初めてだった。

トイレのしつけに四苦八苦し、アポロがおしっこやうんちをした時間を記録しながら追いかけ回していたことがついこの間のことのように感じる。ちなみに今は間違いなくトイレでしてくれる…というより家のトイレでしかしてくれないため、遠出の時のために外でできる練習をしているほどだ。

さみしがり屋のアポロがいるので、外出しても自然と帰宅はこれまでよりも早くなった。こっちゅんと外で遊んでいても

「アポロ、お家でさみしがってないかな」

と言うのが帰宅のサインとなった。

わが家はリビングの窓から玄関が見えるのだが、帰宅して門扉を開けると、その音が合図のようにカーテンの間からアポロが顔を覗かせる。興奮させないようにそっと入っても、アポロの尻尾はいつも180度以上ブンブンだ。玄関のカギを回す頃にはもう軽快な足音が聞こえてくる。そしてドアを開けると当然のようにかわいいアポロが嬉しそうな表情を浮かべて目の前に座っている。

犬の寿命は15年程度だと聞く。永遠にアポロがいてくれるわけではないからこそ、今一緒に過ごせる時間を大切にしたい。だから本当はお留守番などさせず、どこにでも一緒に行きたい。

でもそういうわけにもいかないので、せめてお留守番の時間をアポロが楽しめるようにと今日も出かける前にせっせと私は小道具を準備した。布や段ボールでノーズワークができるように工夫し、クレートにもお気に入りのおもちゃをそっと忍ばせてから静かに玄関を出る。そして用事を急いで済ませると窓辺で帰りを待ってくれているアポロを想いながら一目散に帰宅した。

「それじゃあどっちが分離不安なのかわからないね」

夫は笑いながらそう言ったが、私はハッとした。思いたる節は…うん、いっぱいある。

ということはさみしがり屋なのはアポロではなく、私のほうなのかも。

アポロは「さみしがり屋のままをちゃんとお迎えしてあげなくちゃ!」という使命感でカーテンのあいだから顔を出しているのかもしれない。アポロはわが家の忠犬なので、玄関から嬉しそうに飛び込んでくる主を全力で迎えてくれているのだ。

 

 

美容師こっちゅん


ささいなことでも自分が心動かされたことや感じたことを文にしていきたい。

そう思って始めたブログだが、むしろ最近、その逆だったことに気付かされた。

専業主婦である私は、一日中娘のこっちゅんと犬のアポロと一緒に過ごしている。夫は仕事で帰りが22時になることもあり、下手をすると言語の通じる人と会話しないまま一日が終わることもある。

こっちゅんもアポロも本当にかわいい。でも思いのままに振る舞う二人を前にしていると、どんどん自分の感情が「無」に近づいてしまうようになった。「無」の気持ちでないととても冷静に対応することができなくなってしまったのだ。

これでは自分もダメになるかもしれない。

そう感じた私は、もともと書くことが好きだったこともありこうしてブログを始めた。すると、心が動き始めたのだ。これまでは見逃していた青々と輝く葉の美しさや、小さい手のひらで私の背中をとんとんとしてくれるこっちゅんのかわいらしさ。ぴたっとおしりをくっつけてくれるアポロの体温。私には書きたいことがこんなにもあるのかと驚いた。

書こうと決めたからこそ心が動き出す。

日々の暮らしには、今しか切り取ることができない一瞬一瞬があるのだ。

 

今日はふと思い立ってこっちゅんと髪を切りに行った。

まだまだ美容室に慣れないこっちゅんは、切ってもらう間中カッチンコッチンに固まっていた。嫌がるでもなく、あばれるでもなく固まりきっている。

「こっちゅん、かわいくしてもらってるよ」

カット中に私が声をかけると、無言のままじろりと目玉だけを動かして私を見て、再び視線を鏡に戻す。自分の髪が切られている様子をじっと見つめていた。

その後、私もカットしてもらい帰宅すると、こっちゅんが

「まま、ここにいれてたよね」

と自分のおもちゃが入った引き出しをあさっている。何を探しているのと訪ねたらナイショと答えた。

それじゃあ探してあげようが無いじゃん…と思いながら昼食の片付けをしていると、

「あった!」

と嬉しそうにおもちゃの黄色いはさみを手にしている。

あー、美容師ごっごをしたいのかな、と思いながら見つめていると、はさみをアポロの毛に当て始めた。

「うごかないでねー。こっちゅんがきってあげるからねー」

のんびりとソファーで過ごしていたアポロは迷惑そうに顔をあげ、困り顔を私に向けた。

「こっちゅん、アポロはねんねしてたんだからかわいそうだよ」

そう私が言うと、こっちゅんは思いがけないことを言った。

「だってこっちゅんとままとアポロはいつもいっしょでしょ。こっちゅんとままはきったんだからアポロもきってあげないとかなしいよ。いっしょじゃないと」

アポロが自分だけ美容室に行けなかったことを悲しんでいるとこっちゅんは思ったようだ。これはいつも私が「ママとこっちゅんとアポロはいつも一緒」と言っているからだろうか。でも一人でお留守番をしていたアポロの気持ちを汲んであげるこっちゅんの優しさに私はキュンとなった。いつのまにアポロを思いやる気持ちを身につけたんだろう。

その後、はさみにおびえたアポロがクレートに隠れてしまったので、こっちゅんの思いは果たせなかった。クレートの前ではさみを手に「あぽー、ででおいでー」と立ち塞がるこっちゅん。思い通りにならないことは多いが、心はまた一歩成長したようだ。