愛しの暮らし

子育て・犬育て・自分育て。暮らしのなかにある愛しいものを綴っています。

しずかな時間


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GWが開けた朝、夫は仕事へ、こっちゅんは幼稚園へとそれぞれ出かけていった。

久し振りにしんと静まった家。ソファーの上ではアポロがおなかを出してごろんと転がっている。

私は静かな時間が好きだ。

皆を見送り、忙しく家事をこなしながらも、手を止めたときに感じる静けさに心が落ち着く。GWは皆が近くにいて、話し声や笑い声、時にはアポロがワンワンと吠える声などにぎやかだったが、今日はひとり。いや、厳密に言うと一人と一匹。アポロが私に吠えることは皆無なので、静かな時間を味わいながらこれを書いている。

でもこれが24時間365日だったらどうだろう。きっとはじめは平気。その静けさを楽しめる自信がある。しかし私のことだ、そのうちだんだんと淋しく、辛くなっていくだろう。

子どもの頃、帰宅しても両親は仕事で不在だった。しかし私が帰ると、小さな木の皿に乗ったお菓子が毎日きちんと用意されていた。きっと帰宅した私に少しでも喜んでもらいたいという母の優しさだったのだろう。確かに学校からの帰り道、今日はどんなお菓子が置いてあるだろうかと楽しみだった。でもその楽しみは手にすると一瞬で終わってしまう。私はお菓子を食べると裏の田んぼのあぜ道に座って過ごすことが多かった。何の音もしない家の中にいると、しんとした空気が冷たく感じられ、孤独が増すような気がしたからだ。

当時は「ただいま」といえば「おかえり」と言ってくれる母親がいる家庭にあこがれた。近所に住んでいた友だちはお父さんが医者で、私が遊びに行くとキレイなお母さんがいつも大きなお皿に乗せたお菓子にジュースを添えて持ってきてくれた。そこに並んでいるお菓子たちは美しい包装紙に包まれており、子どもながらにわが家の貧しさを痛感したものだ。

それでも外で時間をつぶして帰宅すると、母が「おかえり」と迎えてくれた。友だちの家で感じたわびしさは、母の顔を見ただけですっかり消え去った。貧しくても母がいることが私の幸せだった。私は母のそばを離れたくなくて、用事が無いのに台所をウロウロしていたことを今でもよく覚えている。

子どもの頃の私にとって「静けさ」はイコール「淋しさ」だったので、キライだった。でも今はその静けさを楽しめている。それはきっとその前後に「にぎやかな時間」が間違いなく存在するからだろう。「にぎやかな時間」を楽しむために、「静かな時間」に準備をする。料理をし、手芸をし、そして自分の心を整える。家族が帰ってくれば部屋の中は急ににぎやかになるが、それはそれで愛しい時間だ。

 

今日私が過ごせる静かな時間もあとわずか。さあ、来るべきにぎやかな時間を楽しむために、はっさくのゼリーでも作ろうか。