愛しの暮らし

子育て・犬育て・自分育て。暮らしのなかにある愛しいものを綴っています。

幸せをもたらすスキンシップ


f:id:hoshizukiAKO:20230515120955j:image
犬とはなんてかわいい生き物なんだろうか。

うちのアポロはミニチュアダックスの4歳。私たちは完全に犬バカ夫婦なので、アポロと1日でも長く過ごしたくて、彼の健康管理は欠かさない。日常の散歩はもちろん、最近では庭に自由に出入りできるよう、アポロ用のドアとスロープを設置。天気の良い日は気持ちよさそうに風を浴びながらひなたぼっこをしている。そして週に1度は夫による体重測定も欠かさない。理想体重の4キロをぴったりと守り、少しでも増えたら散歩を長めにするし、少なければごはんを増やす。とにかく日頃からよく様子を見て、できるかぎりストレスフリーの生活を心がけている結果、アポロが4月に受けた健康診断では、体内年齢が2歳だと言われた。

アポロは私がソファーに腰掛けると「待ってました!」と言わんばかりにすぐ隣にやってきて、私の体におしりをピタッとくっつけてくつろぐ。よりリラックスしたいときは、膝の上に乗り、へそ天でごろん。そうなると人間は動けなくなってしまうのだが、あまりのかわいさにトイレまで我慢してしまう。まったく、どっちが主なのかわからなくなることもしばしばだ。

今もこれを書いている私の足下にやってきて、かかとにおしりをくっつけている。この優しいあたたかさ。彼の体温に何度癒やされ、励まされ、安心させてもらったことか。そうして気付いたことがある。さりげないスキンシップの大切さ、だ。

子どもの頃、おなかが痛いときに母親がただ手を当ててくれていたことがある。さすったりするわけではなく、ただおなかに手を置いているだけ。ただそれだけなのに、おなかの痛みは和らいでいった。落ち込んだ時や失敗した時に友だちが肩に、背中に手を置いてくれただけで、気持ちがふっと軽くなった。スキンシップには言いようのない力があるのだ。

アポロをそっと撫でてみる。すると嬉しそうに私を見上げる。撫でる私、撫でられるアポロのどちらも幸せだ。

動物への虐待や多頭飼育崩壊のニュースを耳にすることも多い。その人たちはきっと目の前にいる子たちを撫でなかったのだろう。撫でて見つめあえば間違いなく愛情が満ちてくるというのに。それは人間の子どもに対しても同じ。ただ抱きしめる。その回数を増やすだけでお互いかけがえのない存在となっていく。

今日も私はたくさん撫でて、たくさん抱きしめよう。アポロもこっちゅんも。そうすることで誰よりも私自身がいちばん幸せになれるのだ。

 

憧れの「推し活」


f:id:hoshizukiAKO:20230511132112j:image
熱烈な「推し活」に憧れる。

自分の人生や生活に潤いや喜び、生きる希望を与えてくれる存在、それが「推し」。私には今この「推し」と呼べる存在がいない。

推し活をしている友人の話を聞くと、とても楽しそうでうらやましくなる。同じ人を推す仲間同士で情報の共有をしたり、出かけたりするとおしゃべりが止まらないそうだ。落ち込んだことがあっても、帰宅して撮り溜めた推しの姿を見るだけで心は満たされていくのだという。

私も昔はミーハーだった。光GENJIから始まり、KinKi Kidsオザケンこと小沢健二にハマった。楽曲を繰り返し聞いてうっとりしたり、透明な下敷きに写真を入れ、いつでも眺められるようにしていた。授業中に外を眺めては、彼らと同じクラスだったらと妄想をふくらませたりもした。しかし年齢を重ねるにつれ、彼らから気持ちは離れ、あれほど得意だった妄想をしなくなってしまった。40代になった今は「ときめき」を失ってしまった自分に気付かざるを得ない状況だ。

でも推しがいる同世代の友人は皆、とても楽しそうでいきいきしている。大事な仕事の日は推しのカラーを身にまとい、推しの力を借りてがんばるのだそう。そんな彼女たちの姿がまぶしく、私も推しを作りたいともがいているが、なかなか心がグラッとするような存在には出会えていない。

「押しを作ろうと思って探してはダメよ。気持ちを先に動かさないと。頭から入っても押しはできない」ー悩む私に推し活をしている友だちはサラッと言ってのけたが、その「気持ちを動かす」出会いがなかなかないのだ。

何かにハマるということは簡単なようでいてなかなか難しい。だから推しのいる人は堂々とその生活を楽しみきってほしい。突き詰めればそれも大きな才能なのだから。

 

少しゆっくり



f:id:hoshizukiAKO:20230510161542j:image

今日はやる気が出ない…

昨日がんばって動きすぎたからか、今日はいいお天気なのに何をするにも億劫になってしまう。きっと娘から風邪をもらったせいもあるだろう。熱はないけどのどが痛い。

こういう日はどうやって過ごそうか考えているうちにもう夕方が近づいてきた。やることはいっぱいある。が体が動かないのだ。

ぼんやりと庭を眺めていると、雑草が伸びていることに気がついた。GW前にこっちゅんと2人で草むしりをしたはずなのに、もうあちこちから顔を出している。雑草って本当にたくましい。

踏まれても抜かれても、絶えず生きる術を探し、成長し続ける雑草の姿に感心してしまう。誰が見ていなくても、淡々と自分の使命のままに生きているというのは、うらやましい気さえする。困難があってもめげずに立ち上がることを「雑草魂」とはよく言ったものだ。そういう人は結局強い。勝つことだけが強いのではなく、負けないこともまた強さなのだ。

そして負けないためには時として自分を甘やかすことも必要だ。そうやって英気を養い、次に向かう。心を元気にするには、無理をしないことがいちばん。

というわけで今日は少しゆっくり過ごそう。その分、またどこかでがんばればいいのだから。

 

太陽と過ごす


f:id:hoshizukiAKO:20230509155454j:image
雨が好きな私だが、晴れは晴れで気持ちがいい。

真っ青な空を見ると、それだけでいい一日になりそうな気がする。たまった洗濯物も乾くし、庭の花も嬉しそうだ。

五月病」という言葉がある。GWが開けると急にやる気が無くなり、鬱々とした気持ちになるというものだが、私に限っては、気をつけないと年中いつでもこの症状に襲われる。もともと面倒くさがりで動きたくない。加えて、育児のために大半を家で過ごしているため、夜、夫が帰宅するまで誰とも言葉を交わさないというのが良くないらしい。気持ちがなかなか開放的にならないのだ。

でも今日のようにスカッとした青空に出会うと、心はみるみる上向きになる。せっかくだから布団を干そう、カバーも洗おう。レイコップもかけて完璧に仕上げよう。次はソファーのクッションを天日干しだ、とやりたいことが次々と浮かんできて、座る暇などない。とにかく動いていることが気持ちよくてたまらない。何か他にやることはないかと頭をフル回転させて考える。太陽がでているうちにその力を借りるべきことを全力で探す。

そしてふと考えた。太陽の光を浴びない生活は、いったい何日まで我慢できるだろうか。私でも1週間どんよりした日が続くと鬱屈としてくる。こっちゅんやアポロはお日様が大好きなので、きっともっと耐えられないだろう。今もアポロは庭の芝生で気持ちよさそうにひなたぼっこをしているのだから。

この後にやってくるのは梅雨。雨のシーズンだ。それまでの間、しばし気持ちの良い太陽を浴びておこう。1年のうちで今の季節の太陽がいちばん付き合いやすい。さわやかな風とあたたかい光。こんな日は外でごはんでも食べようか。

 

 

 

 

 

しずかな時間


f:id:hoshizukiAKO:20230508132721j:image
GWが開けた朝、夫は仕事へ、こっちゅんは幼稚園へとそれぞれ出かけていった。

久し振りにしんと静まった家。ソファーの上ではアポロがおなかを出してごろんと転がっている。

私は静かな時間が好きだ。

皆を見送り、忙しく家事をこなしながらも、手を止めたときに感じる静けさに心が落ち着く。GWは皆が近くにいて、話し声や笑い声、時にはアポロがワンワンと吠える声などにぎやかだったが、今日はひとり。いや、厳密に言うと一人と一匹。アポロが私に吠えることは皆無なので、静かな時間を味わいながらこれを書いている。

でもこれが24時間365日だったらどうだろう。きっとはじめは平気。その静けさを楽しめる自信がある。しかし私のことだ、そのうちだんだんと淋しく、辛くなっていくだろう。

子どもの頃、帰宅しても両親は仕事で不在だった。しかし私が帰ると、小さな木の皿に乗ったお菓子が毎日きちんと用意されていた。きっと帰宅した私に少しでも喜んでもらいたいという母の優しさだったのだろう。確かに学校からの帰り道、今日はどんなお菓子が置いてあるだろうかと楽しみだった。でもその楽しみは手にすると一瞬で終わってしまう。私はお菓子を食べると裏の田んぼのあぜ道に座って過ごすことが多かった。何の音もしない家の中にいると、しんとした空気が冷たく感じられ、孤独が増すような気がしたからだ。

当時は「ただいま」といえば「おかえり」と言ってくれる母親がいる家庭にあこがれた。近所に住んでいた友だちはお父さんが医者で、私が遊びに行くとキレイなお母さんがいつも大きなお皿に乗せたお菓子にジュースを添えて持ってきてくれた。そこに並んでいるお菓子たちは美しい包装紙に包まれており、子どもながらにわが家の貧しさを痛感したものだ。

それでも外で時間をつぶして帰宅すると、母が「おかえり」と迎えてくれた。友だちの家で感じたわびしさは、母の顔を見ただけですっかり消え去った。貧しくても母がいることが私の幸せだった。私は母のそばを離れたくなくて、用事が無いのに台所をウロウロしていたことを今でもよく覚えている。

子どもの頃の私にとって「静けさ」はイコール「淋しさ」だったので、キライだった。でも今はその静けさを楽しめている。それはきっとその前後に「にぎやかな時間」が間違いなく存在するからだろう。「にぎやかな時間」を楽しむために、「静かな時間」に準備をする。料理をし、手芸をし、そして自分の心を整える。家族が帰ってくれば部屋の中は急ににぎやかになるが、それはそれで愛しい時間だ。

 

今日私が過ごせる静かな時間もあとわずか。さあ、来るべきにぎやかな時間を楽しむために、はっさくのゼリーでも作ろうか。

 

手を止める


f:id:hoshizukiAKO:20230111192220j:image

先日、テレビをみていたら「仲の良い親子特集」という企画に雅楽師東儀秀樹さんとその息子さんが出演されていた。お2人は好きな音楽や服の趣味まで似ており、友人のような親子関係だという。

「友人のような親子関係」とはよく耳にする言葉だが、実際は難しい。それは親が一方的に思っているだけでは成立せず、どこまでも子どもが親を信頼して初めて成り立つ関係だからだ。そういう関係を築けるかどうかは、親の姿勢にかかっている。

東儀秀樹さんは子どもが「パパ、あのね」と自分のもとにやってきたとき、何をしていてもとにかく一度手を止めて子どもの話を聞いたそうだ。「子どもに“今忙しいから後でね”と言っても、後で話してくれるかはわからない。タイミングを逃したら、永遠に子どもの胸の中にしまわれたままになってしまうかもしれない。だからその時にちゃんと向き合うようにしたんです」と語っていた。

その話を聞きながら、私はいたく反省した。自分はどうだ。「ちょっと待ってね」「少し後でね」なんて一日に何度口にしているかわからない。確かに私のその言葉を聞いたこっちゅんは、私のもとへ駆け寄ってきた時よりあきらかにシュンとして立ち尽くすことが多い。もちろん私だって大慌てで用事を終わらせ「待たせてごめんね」と寄っていくものの、やはりこっちゅんのテンションは下がってしまっている。

四六時中子どもと向き合い続けるのは難しい。でも「まま、あのね」とこっちゅんが来たときはこっちゅんの言葉を大切にすべきではなかったか。この地球に生まれてたった3年の小さな心。わからないことや不安なことばかりで当然だ。そんな心の唯一の拠り所が親だ。今、その小さな心は親への全幅の信頼で満たされている。それを関わり方次第で保つも減すも親自身にかかっているのだ。

今朝、こっちゅんがおもらしをしてしまった。通園前のいちばん忙しい時で、「何で今なの!」と声に出そうだった。そんなこと言ってもおしっこがもとに戻るわけではない。それに失敗して気落ちしているのはこっちゅんのほうだ。現に表情が落ち込んでいる。いつもの私なら、感情的になっていたかもしれない。でもこっちゅんの気持ちをいちばんに考えようと思った。膝を付き、服を脱がせながら「冷たかったね」とひとこと言った。するとこっちゅんが私の首をギュッと抱きしめて、その小さな手で私の背中をとんとんとんと3回優しく叩いた。こっちゅんが悲しいとき、落ち込んでいるときに私がする仕草。こっちゅんは自分のおもらしによって、私が落ち込んでいると思ったのだろう。と同時に、慰めようとしてくれたのだ。

子どもは親をしっかり見ている。それは時として、親が子どもを見る以上かもしれない。せわしなく動く親に振り向いてほしくて、じっと様子を伺い、笑顔を向けてほしいと願っている。自分はそんな子どもの心に気付いていたのだろうか。

これからはこっちゅんがやってきたとき、とにかく一度手を止めよう。そして向き合おう。こっちゅんの私に対しての信頼がこのまま満たされ続けていくように。

通常モードに戻れなくても


f:id:hoshizukiAKO:20230110165041j:image

遂に3連休が終わってしまった…

これでいよいよ通常モードに切り替えていかねばならない。

年末年始が明けてもすぐにある3連休のおかげで、先週は何とか乗り切ることができた。が、それもあっけなく過ぎ去り、今日からは娘の幼稚園がスタート。朝起きてから幼稚園の門の前で「いってらっしゃい」と手を振るまでの一連の動きがまだ軌道に乗っておらず、いつもより10分遅れの登園になってしまった。

夫も一昨日、疲れ切った体をマッサージで癒やしたばかりだというのに、信じられないほど重たい荷物を背負って自転車で通勤していった。マッサージを受けたあとの痛みがあちこちにあり、返ってしんどそうだ。

私は寝る時にナーバスにならないように、「明日はどんな楽しいことをしようかな」と考えながら布団に入ることにしている。そうじゃないと、元来の心配性が先に立ち、あれもこれも気になり、眠れなくなるからだ。だから昨夜も「明日は何をしようかな」とベッドの中で思いを巡らせた。娘が幼稚園に行っている間に、娘のお気に入りであるぬいぐるみのくまちゃんに着せる服を作ろうかな、それとも久々にスイーツでも作って好きなラジコでも聞きながらゆっくりコーヒーを飲もうかな…頭の中には楽しいことがたくさん浮かんでいたが、娘が帰ってくるまでに結局家事に追われ、何一つできなかった。まだまだ私はモード回復できていないようだ。

いつもなら幼稚園に送った後に猛スピードで動き、自分の時間を確保する。しかし、年末年始+三連休が私に与えた影響はあまりにも大きく、結局昼食の時に椅子に座っただけで、あとは立ちっぱなし。せわしなく動いた一日だった。

でも焦るまい。todoリストが上手く消えていかなくても、それはそれでいいではないか。今年の私は、完璧主義を手放したいと思っている。これまで任されたことはほぼ完璧に仕上げてきた。でもその分、あれこれ思い悩み、苦しい思いもした。だから今年は焦らず、できない自分も受け入れていきたいのだ。

明日は明日の風が吹く、だ。竹のようにしなやかな心で、ほがらかに過ごそう。居心地の良い自分を自分で作るのだ。